幻想文学100選

先日、ガーディアン紙の選ぶオールタイム100冊を見ていて、もし自分が幻想文学からわりとオーソドックスに100冊選ぶとしたらどんな感じだろうと思いつくままに書き出してみた。このリストから、ジャンルではないため範囲が曖昧で雑多な幻想文学というものを自分はどういうものとしてとらえているか、浮かび上がってくる……のかもしれない。見てわかるように、あまり恐怖を押し出した作品は入っていない。つまりぼくにとって、幻想文学=怪奇幻想ではない。基本的に海外作家の長篇(中編程度のものや連作も若干含む)に限定しているが、シュオッブとボルヘスのみは例外。長編がないとはいえ、こうしたリストにシュオッブとボルヘスが入らないのはありえない。一作家一作品で、個人的な偏愛よりも一般的に名作だろうと思われる方をできるだけチョイスしてみた。ただし読んだことのある作品に限られるうえに流動的なお遊びのリストなので、決定版とか、そういうものではないことは一応お断りしておく。

 

エリアーデ 『ムントゥリャサ通りで』
マッカラーズ『黄金の眼に映るもの』
ディック『暗闇のスキャナー』
ジーン・ウルフ『新しい太陽の書』
ジャン・レー『マルペルチュイ』
シュオッブ『黄金仮面の王』
ミルボー『責苦の庭』
グラッグ『アルゴールの城にて』
グリーン『波の上を駆ける女』
ホッグ『義とされた罪人の手記と告白』

ラドクリフ『ユドルフォ城の怪奇』
シュペルヴィエル『火山を運ぶ男』
ベックフォード『ヴァセック』
レ・ファニュ『カーミラ』
ドーマル『類推の山』
ボウルズ『シェルタリング・スカイ』

ボルヘス『伝奇集』
ラスキ『ヴィクトリア朝の寝椅子』
カヴァン『アサイラム・ピース』
ジャクスン『丘の屋敷』

アンデルセン『絵のない絵本』
エディスン『ウロボロス』
ピーク『ゴーメンガースト』
マイリンク『ゴーレム』
マルケス『百年の孤独』
ドノソ『夜のみだらな鳥』
カリンティ『エペペ』
デュ・モーリア『レベッカ』
ダンセイニ『エルフランドの王女』
ヴォネガット『タイタンの妖女』

ジェイムズ『ねじの回転』
ボレル『シャンパヴェール悖徳物語』
タブツキ『インド夜想曲』
ヴェルヌ『ハテラス船長の航海と冒険』
オースター『最後のものたちの国で』
カリントン『耳らっぱ』
オンダ―チェ『イギリス人の患者』
ダニエレブスキー『紙葉の家』
アトウッド『侍女の物語』
ロンドン『星を駆ける者』

ゴールディング『蠅の王』
シュルツ『砂時計サナトリウム』
ボウルズ『シェルタリング・スカイ』
ミルトン『失楽園』
ノヴァーリス『青い花』
ナボコフ『ロリータ』
ルイス『マンク』
ウォルポール『オトラント城』
シェリー『フランケンシュタイン』
リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』

バタイユ『眼球譚』
サド『ジェスティーヌ』
リラダン『未来のイヴ』
ステープルドン『スターメイカー』
カポーティ『遠い部屋、遠い声』
ヴェーソス『氷の城』
ヤーン『鉛の夜』
ポトツキ『サラゴサ手稿』
ブルワ=リットン『ザノーニ』
エンデ『はてしない物語』

残雪『黄泥街』
レム『ソラリス』
カゾット『悪魔の恋』
カフカ『城』
ホジスン『ナイトランド』
マクドナルド『リリス』
ブッツァーティ『タタール人の砂漠』
ユイスマンス『さかしま』
リャマーレス『黄色い雨』
ヘクト『悪魔の殿堂』

シュティフター『水晶』
カルヴィーノ『見えない都市』
ルルフォ『ペドロ・パラモ』
ゼーバルト『アウステルリッツ』
ウルフ『オーランドー』
リース『サルガッソーの広い海』
コンラッド『闇の奥』
セルバンテス『ドン・キホーテ』
メルヴィル『白鯨』
モリスン『ビラヴド』

チュツオーラ『やし酒呑み』
ファウルズ『魔術師』
ブローティガン『西瓜糖の日々』
ルーセル『アフリカの印象』
マッケン『夢の丘』
クービン『裏面』
ジャリ『超男性』
ヴィアン『うたかたの日々』
カサーレス『モレルの発明』
ネルヴァル『オーレリア』

ビーグル『心地よく秘密めいたところ』
ぺルッツ『夜毎に石の橋の下で』
サーバン『人形つくり』
バラード『結晶世界』
ブラウン『ウィーランド』
メンドサ『グルプ消息不明』
アイヒンガー『より大きな希望』
アイヴァス『もうひとつの街』
ローデンバック『死都ブリュージュ』
エリクソン『黒い時計の旅』

イーディス・ウォートン『幽霊』

 

 イーディス・ウォートン『幽霊』(薗田美和子・山田晴子訳/作品社刊)読了。全部で七篇の短篇が収められた短編集。
 冒頭の四篇は、貴族の屋敷を舞台にしたゴシック怪談で、留守がちだが妻を所有物のように考えている主人と屋敷から出ることも許されない妻、そして彼女と親密になる男性という、同じモチーフを扱って書かれた小説のヴァリエーションといっても良さそうな作品。しかし似たような物語の枠組みだからといって、それが悪いわけではないのは、ゴシックとはそういうものだからである。この四つの作品も恐怖を感じる肝の部分が少しづつ異なっていて工夫があるし、何よりイーディスの語りが読ませる。
 続く三篇はどれもユニークな作品で、名品と言って良さそう。
 「柘榴の種」はそれまでの四編とは一変して現代風のホラー。妻を失くした男と再婚した女性の物語だが、あるときから定期的に夫宛ての手紙が届くようになり、それを読むたびに夫は暗い顔になるのだが…というもの。今となってはもはや都市伝説的なありふれた筋運びかもしれないが、彼女の筆致から感じられるのは単なる恐怖ではなく、壁のような不安の気配に思えた。
 次の「ホルバインにならって」は、かつて社交界でブイブイいわせていた女主人とモテ男の人生最後の一日を描いた作品だが、ある意味おかしみさえ感じるシチュエーションにも拘らず、次第にうすら寒くなってきて、最後にはなんともいえない気分になった。
 最後の「万霊節」は、郊外の屋敷を相続した未亡人が、一人の謎めいた女性とすれ違ったそのあと骨折をし、部屋で動けないまま療養することになるのだが、早朝ふと目が醒めると屋敷の中が冷え冷えとしていて、使用人たちの気配がない……というもの。思うように動けぬまま、足をひきずりながら、誰もいない広い屋敷の中を歩きまわるときの不安げな描写が見事で(夜でないところがまたいい)、どこか子供の頃に感じたことのある恐怖を思い出させる。
 すべての作品に共通して言えることは、女性の不安や寄る辺なさを描き出しているということだろう。その当時の、と言いたいが、それがいまどれだけ過去のものになっているのか、それは残念ながら男性であるぼくにいったいどれほど理解できているのかを言い切れる自信がない。

ケイト・ウイルヘルム『杜松の時』

 

 

 ケイト・ウイルヘルム『杜松の時』(友枝康子訳/サンリオSF文庫)読了。これは、地味かもしれないが、隠れた傑作ではないだろうか。半世紀近く前に書かれたSFにも拘らずあまり古びて感じなかったのは、スリリングなストーリーもさることながら、何より一人の有能な女性が社会の理不尽に翻弄されながらも自死の誘惑を超えて自らを取り戻してゆくという過程が柱に据えられていて、物語としての厚みがあるからだろう。おそらく彼女の最も有名な作品であり、その美麗なカバーや詩的なタイトルからサンリオSF文庫の中でも特に人気があって、数年前には創元SF文庫から復刊もされた『鳥の歌いまは絶え』よりも、もしかしたら今でも読むに値するという点ではこちらの方が上かもしれない。
 物語は世界が異常気象により停滞している近未来が舞台。宇宙ステーションに勤務している男が、宇宙デブリの中に安置された謎の巻物が入った金属筒を発見する。金のシートには文字らしきものが記されている。果たしてそれは停滞する地球の状況を打開するヒントとなりうる、異星人からのメッセージなのか。それともどこかの国の誰かによるたちの悪い悪戯なのか。彼はそれの真偽と解読を、幼馴染みであるが、今は紆余曲折の果てにインディアンたちと暮らしている、天才的な言語学者のジーンに依頼するが……というもの。
 男性社会のなかで働く、辛い過去を背負った能力ある女性が、自らの中の強い意思を取り戻して、世界にとある爆弾を投じる決断をするというあたり、ちょっと『三体』の第一部も彷彿とさせたりもする(ただし意味は真逆に近いが)。ボロボロになった主人公のジーンが流れ着くように辿り着き、そこで自らを再生させることになる土地の、インディアンの男性たちを除き、出てくる男たちが揃いも揃って無自覚にジーンを下に見て支配しようとする(しかもそれを彼女のためだと思ってる)あたり、妙なリアリティがある。もちろんフェミニズムを扱ったSFとしても秀作だが、そういったイデオロギー以前に、何より小説として地に着いた語りがしっかりしていて、最後まで飽きさせない作品だと思う。

トマス・リゴッティ『悪夢工場』

 トマス・リゴッティ『悪夢工場』(若島正編訳/河出書房新社)読了。
 単著の邦訳が待たれていたカルト的作家の日本独自編集による短編集。だいたい発表順に並べられていて、編者によると彼の作風とその変化がよくわかるものを選んだとのこと。ほとんどが初訳だが、二篇は既訳があるものからの再録となっている。
 編者の言葉通りというか、冒頭に置かれた「穢れ」はわりとわかりやすいモダン・ホラーの佳品となっているが、後年になるにつれて次第に神秘色というか、ラヴクラフトの影響を強く感じさせるコズミック・ホラー色を強めていってる印象。ただしクトゥルー神話とは一線を画しているように思える。クトゥルー神話がクトゥルーだとかダゴンだとかといった邪神に名前をつけてある意味キャラクター化をすることで多くの人に認知され、フォロワーを生み出していったのと引き換えにある意味では陳腐化していったのとは逆に、その怪異を正体不明のものとして扱うことで、先祖返り的にコズミック・ホラーの本質的な部分を描こうとしているように思えた。となると自然と文体が大きな意味を持つわけで、そういう意味ではほとんどカットアップされた断片のスケッチに近いような「魔力」や「世界の底に潜む影」のような作品が他の作家とは全く違って本領なのかもしれないとも思う。やや長めの「道化師の最後の祭り」や「ツァラル」のような作品は、わりとわかりやすくてクラシックな怪奇小説に近いような印象も受けた。個人的に最も気に入ったのは本を巡る物語「ヴァステイリアン」。「ネセスキュリアル」はわりと曖昧な作品ではあるが、最後の否定語が続くあたり、もしかしたら原文で読むとさらに不気味さが増すのかもしれないとも思った。ラストに置かれた「赤塔」は、なんだか自らの創作の秘密を垣間見せているような話のようにも思えた。
 リゴッティはラヴクラフト以外にもブルーノ・シュルツなどとも比較されるというし、文学性も高いとされているが、読んだ限りでは文学性も併せ持ちながらもあくまで恐怖そのものに主軸を置いたホラー作家であるという印象を受ける。あるいはそこが彼の独自性となっているのかもしれない。

『ハンバーガー殺人事件』と『風に吹きはらわれてしまわないように』

 リチャード・ブローティガン『風にふきはらわれてしまわないように』(松本淳訳/ちくま文庫)はもともと『ハンバーガー殺人事件』として晶文社から出版されたものの復刊ということになっているが、少し読んでみたところ、ほとんどすべての文章が大きく改められており、これは復刊というよりも完全新訳といった方が正しいと思う。新訳では、より言葉を簡潔にしようとしているのがうかがえる。原文を読んでないので、改訳でどれだけ解像度が上がっているかについては何ともいえないところはあるし(おそらく上がっているのだろうと思えるところは多い)、どちらがいいのかは好みかもしれないが、長らく絶版だった名作が手軽に手にとれるようになったのは嬉しいものの、個人的にはよりセンチメンタルな旧訳に思い入れがあるうえに、初期の村上春樹なんかにも通じる、当時の空気感もそちらにより封じ込められているように感じるところも少なくない。
 例えば、何度も繰り返される、タイトルにもなっているフレーズはこのように変わっている。

【新訳】
風が吹きはらってしまわないように
つちぼこり。アメリカに舞う……つちぼこり

【旧訳】
風が吹いても消えやしない
ちりは……アメリカのちりは

 解説に「つちぼこり」を採用した理由があって、なるほどと思う反面、これがブローティガンの生前最後の作品であることを踏まえて、すでに本国では忘れられつつあった自らや自らの作品や記憶、古き良きアメリカ、それに新しいものに吹き飛ばされてしまうような、けれども愛おしい儚くささやかなものなどをdustという言葉に重ね合わせているのではと考えるとすると、「風がすべてを吹き飛ばしてしまわないように ちりを……アメリカのちりを」みたいな感じで、よりイメージが固定されてしまう「つちぼこり」よりも、漠然としたもとの「ちり」の方が個人的には相応しかったのではないかという気もする。

 また、この作品でネタバレもくそもないと思うので書くが、いちばん最後の台詞、ここはこう変わっている

【新訳】
「あの子は、どこへ行ったんだろう。母さん」
「わからない」
 それから二人は釣竿を立て、コーヒーを注ぎ、ソファにくつろぐ。釣り糸は静かに水面に延び、二人のリビングは証明スタンドに灯る石油の炎で照らし出される。
「あの子は、いないね」
「行っちゃったんだろ」
「帰ったのかもね」

【旧訳】
「あの子はどこへ行ったのかね、母さん」
「さあどこでしょう、父さん」
 そしてあの人たちは釣りを始める。長椅子にくつろいでコーヒーを飲む。釣糸の先は水の中に消えている。あの人たちの家具が石油用の電灯の明かりの中に浮かび上がる。
「どこにいるのかな」
「きっともういないんでしょう」
「家に帰ったのかもしれないな」

 ぼくは旧訳のこのラストの余韻のある言葉にグッときてしまったので、地の文はまあともかく、ここの台詞はこのままにしておいて欲しかったというのが個人的な感想。
 また、これは底本が同じなのだろうかと思った箇所もあって、たとえば最後の方の、

【新訳】
 あの時代、人は自分の想像力を自分でつくりあげていた。自分が食べるものを自分で料理するのと同じだ。いま、夢といえばまるで全国チェーンのレストランが立ち並ぶアメリカの町並みと変わらない。腹の中までハリウッド製のサウンドトラックなんじゃないかと思うこともある。ネットワーク放送で、ぼくらの栄養は消化される。

【旧訳】
 この時代なら、誰でも自分で夢を見ることができた。ちょうど、どの家にも家庭料理があったように。けれど現在、アメリカ中の夢はマクドナルドやケンタッキーフライドチキンのようなフランチャイズで売られている。いや、その夢を買って帰ったあとでも自分のものになっているのだろうか。マクドナルドのハンバーガーには消化されるまでのノウハウまでプログラムされているのではないだろうか。

 これはどういうことなんだろう。新訳版では前文からの文章のつながりもおかしいし、あるいはマクドナルドやケンタッキーフライドチキンからクレームが来て後の版では差し替えられたとか、そういうやつなんだろうか。
 まあともかく、新訳が出て多くの人に読まれるようになったのは喜ばしい限りなのだが、旧訳の『ハンバーガー殺人事件』はアナザーブックといっていいほどのものなので、新訳が出たからといって需要がなくなったりするといったものではなさそうだし、ぼくの書棚では旧版の『ハンバーガー殺人事件』がやはり大切な一冊としての座を占め続けるだろうと思う。

フィリップ・K・ディック『フロリクス8から来た友人』

 フィリップ・K・ディック『フロリクス8から来た友人』(大森望訳/創元SF文庫)読了。
 天才的な頭脳を持つ〈新人〉と超能力を持つ〈異人〉という二種類のミュータントによって交代で世界が支配されている未来を舞台にした物語。どちらでもない普通の人類は〈旧人〉として決して恵まれた公務員になることはできない仕組みができている。主人公である〈旧人〉のニックは、息子に公務員試験を受けさせるが、そこでそうした仕組みに気づき、政府に対する反感を募らせる。そしてふとしたことから、思想犯として理論物理学者のエリック・ゴードンと彼の著作を流通させようとする地下組織と関わることになる。そこに、そうした世界に対するクーデターを企て、外宇宙へと救いを求めて旅立った英雄プロヴォーニがフロリクス8で出逢った宇宙人(?)を伴って帰還するという報せが入る…といった話。
 正直、いろいろと破綻している上に物語が中途半端に終わっていて、とても傑作であるとは言い難いが、反面、ものすごくディックらしい部分もあって、どうして彼の書く物語はこんなに不思議な悲しさが漂っているんだろう、とか思ってしまった。そして、どうしてその悲しさの中に、本当に仄かな、蝋燭の火ほどもない仄かな光が灯っているのかとも。もしかしたらそれを求めて、人はディックを読むのかもしれない

リチャード・ヒューズ『大あらし』

 

 リチャード・ヒューズ『大あらし』(北山克彦訳/晶文社)読了。
 大傑作『ジャマイカの烈風』の著者の、もうひとつの代表作。巨大ハリケーンに遭遇した蒸気船アルキメデス号の奮闘の様子を、迫真かつ冷徹な筆致で描いた傑作だった。何人もの登場人物が出てくるが、誰も主人公ではなく、襲い来る嵐の前に内面を晒すそれぞれの姿に容赦がない。小説とルポタージュのあいだにある作品という感じ。船に雇われた中国人の下級船員のことを白人たちはシナ人と呼び、蔑む気持ちを隠そうともしないあたりが気になるが、それもまた当時の船乗りたちの生身の姿を描いているのだろうと思えるし、実際のところ彼らの力の必要性も描かれ、さらにはその中の一人の背負う人生にも大きくスポットを当ててもいる。海洋怪奇作家のホジスンもいくつか嵐の海の様子を描いた作品を書いているが、そちらは帆船で、こちらは蒸気船というあたり、船乗りたちの対応の違いも詳しく説明されていて興味深かった。
 それにしても、この作品が収められているシリーズ『文学のおくりもの』には、全部を読んでるわけではないが、実に外れが少ないという印象。長らくロングセラーとして書店に並んでいたのも頷ける。