エンプレス・オブ・オーストラリア・・・1

 もうすぐ防災とボランティアの日がやってきます。言うまでもないことですが、1995年1月17日の未明に起きた、阪神・淡路大震災の記念日です。僕は神戸出身なので、この日のことは忘れられません。もっとも、僕はその時東京にいて、実際に体験したわけではないのですが、テレビやラジオにかじりつき、見知った光景が崩れ落ちてゆく、あるいは燃え上がってゆく光景を眺めながら、死者の数がカウントされるのを聞きながら、電話をかけつづけたことをついこの前のように覚えています。やはり兵庫出身の村上春樹さんが、何かの小説で「この世界には様々な天災の悲しみがあるのに、なんでそのうえ戦争まで起こさなければならないんだ」というようなことを書いていたのを覚えていますが、まさにその通りだと思います。
 防災とボランティアの日にちなんで、これから数回に分けて、「R.M.S. "Empress of Australia"」という作品の翻訳を載せようと思います。これはウィリアム・ホープ・ホジスンの未発表作品として、サム・モスコヴィッツがかつて自ら編集したホジスンの拾遺集に収録した作品で、氏はこれを「サンフランシスコ大地震から想を得たのではないか」と述べています。しかし、日本人である我々からみれば、これは「関東大震災」という純然たる史実のレポートであり、サンフランシスコ大地震とは何の関係もないことが明白です。エンプレス・オブ・オーストラリア号による横浜でのボランティア活動は史実として存在しています。1918年に戦死したホジスンに書けるわけがありません。何かの間違いで紛れ込んだようで、現在では贋作だということがわかっていますが、最近完結したホジスン全集にも、贋作だとしながらも、収録されています。
 この作品が誰の手によるものなのかは、まだ調べていないため、はっきりとはしません。オーストラリア号のロビンソン船長の手記が残っているということで、あるいはそれかとも思いましたが、作中に船長の名前が出てくるため、おそらくは違うと思います。しかし、乗員の誰かであることは間違いないでしょう。




エンプレス・オブ・オーストラリア

地震

 横浜の全市と東京の大部分、横須賀の日本海軍の基地、鎌倉、さらには、富士山の東の広い地域を完膚なきまでに破壊した未曾有の大災害について、その全体像を子細に記した報告書を書こうというつもりは私にはない。これはひとつの記録を提供するものであり、部分的にはシップ・ログの形をとっている。私自身の経験もいくらかは含まれているが、1923年8月31日から9月7日までの間に、横浜に停泊していた「エンプレス・オブ・オーストラリア」号のとった行動の一部である。

 8月31日
 横浜到着。帰航途上。外来船用の桟橋に右舷側を寄せて停泊した。この桟橋は建設中であり、木で造られていた部分がコンクリートで補強され、造り直されている。桟橋の両側には、それぞれ二隻づつ、合計で四隻の最大級の船が停泊できる。埠頭には木造の大きな小屋が二つあり、上の階はオープンカフェになっていて、船が出航してゆくのを見るために集まる人々にはよく知られている場所である。

+++++++++++++++++++++

R.M.S. "Empress of Australia"

THE EARTHQUAKE


I DO NOT INTEND WRITING AN ACCOUNT to cover the whole scene of the appalling disaster which completely destroyed the whole City of Yokohama, the greater part of Tokio, the base of the Japanese Navy at Yokoseeka (Yokosuka), Kamura, and also doing much damage in the districts to the east of Fugiyama. This is to give an account, partly in the form of a Log, of some of my own experiences and the part played by the Empress of Australia during her stay in Yokohama from August 31st to September 7, 1923.

AUGUST 31st.
We arrived in Yokohama, homeward bound, and berthed, starboard side to, alongside the Custom's Wharf. This wharf was under construction, the parts built of wood were being rebuilt of re-inforced concrete. It was to have accommodated four of the largest vessels at a time, two on each side of the wharf. It had two large freight sheds built of wood, with upper stories in the form of semi open cafes, which are popular places for people to gather to see the ships depart.




 この桟橋は、現在の山下公園と象の鼻地区の間にある大桟橋です。僕は横浜が好きで、よく出かけるのですが、この辺りを散策するときには、大抵はここで〆ます。イギリス在住の建築家アレハンドロ・ザエラ・ポロ氏とファッシド・ムサヴィ氏の設計による、素晴らしいデザインの桟橋で、夜景がとても美しい場所です。